松平 親氏|武将コラム|豊田の歴史巡り

武将コラム

Vol.1

松平 親氏

家康公に繋がる徳川家の始祖

松平 親氏

Chikauji Matudaira

江戸幕府を築き265年にわたる平和な世をもたらした徳川家康の人生や偉業は、日本人なら誰もが知るところ。しかし、徳川家康の祖先・松平親氏(まつだいら ちかうじ)については、あまり知られていません。
貴重な手掛かりは、徳川家の始祖・松平親氏ゆかりの地“松平郷”に残る、江戸時代初期に記された史料『松平氏由緒書』や、史跡など。これらを深読みして今なおミステリアスな松平親氏の人物像に迫ります!

松平 親氏(まつだいら ちかうじ)

小さいながらも豊かな山間の集落だった「松平郷」に、旅の僧がやってきた。この地を治める土豪であった松平信重は、彼の謙虚な人柄や教養の高さをいたく気に入り、やがて娘の婿として迎えいれた。この諸国を巡る旅の人・徳翁、還俗しての名乗りは親氏。彼こそのちに徳川家の始祖とされた人物である―。

家系図は、2代泰親は親氏の弟で、親氏没後に親氏の次男信光の養父とする説(「松平氏由緒書」)で掲載しています。

松平郷のはじまり

ここは松平郷。
今から600年近く昔のこと、松の木が多く茂るこの地に「松平の主」と呼ばれる人物がおりました。在原氏の流れとも伝わる「末氏ノ尉信盛」と申します。
そのころ、松平の地は「外下山郷」の内といわれ、信盛の子・信重は、「松平」を名字として名乗りました。信重は金銀、米銭、着物、巻物など、何一つ不足ない富豪であったといい、領地も数々有していたと伝えられます。
のちの徳川家発祥であるこの地は、江戸時代初期になると「松平郷」と呼ばれました。

信盛・信重の本屋敷は、現在の八幡の井戸(産湯の井戸)から松平東照宮境内にかけてのあたりにあったとされ、信盛は、この井戸の神の生まれ変わりとも伝えられています。
さて、富豪と伝えられる松平信重のなりわいは、いったい何だったのでしょうか?
信重について史料には、12人の下人にツルハシ、マサカリなど12種類の諸道具を持たせ、一帯の各地に出向いて道や橋を造ったとあります。また、慈悲ある人としてその名声は遠国までも知れ渡ったとありますから、信重は、土木に優れた技術集団を束ねる棟梁、であったということになりましょう。

  • 木造松平親氏座像
    木造松平親氏座像
    豊田市指定文化財。高さ30㎝、寄木造りで黒漆塗、目は玉眼細工。徳阿弥時代の姿だ。
  • 松平親氏公像
    松平親氏公像
    若き親氏をイメージした銅像。領民と同じように泥だらけになり、たくましさ全開の立像だ。

流浪の僧・徳翁

さて、ここからが、松平初代となった松平親氏(徳翁)の話となります。
松平初代の名前を「親氏」とするのは、江戸時代以来の通説ですが、彼の名前について、彼が生きた時代に書かれた確実な史料は伝わっていません。

「親」の字は、泰親の子と考えられる益親、信光の子である親長、親忠、親則などに通じています。彼らは、松平ではないところで生まれ、松平以外の地を本拠とした人たち。ところが17世紀半ば頃に松平郷で書かれた『松平氏由緒書』では、徳翁は還俗して「信武」と名乗ったと記されています。この書では、松平に居着いた、あるいは松平で生まれた松平氏歴代について、信盛-信重-信武(入り婿)-信光と述べていて、歴代の通り字が「信」であったことになります。これは、それなりに筋が通っています。

運命的な出会い

それは、偶然でしょうか、必然でしょうか。
諸国を流浪して、松平郷にたどりついた徳翁(親氏)は、ある運命的な出会いを2つしています。

ひとつには、のちに妻となる松平信重の娘・水姫との出会いです。
徳翁の「翁」は僧侶としての姿に対する敬称ですので、ここでは若者の僧と想像してください。史書にはありませんが、松平郷には地元の方々が大切にしているロマンスがあります。
それは―
松平の里を訪れた徳翁が、信重の屋敷の前にあるかえでの木に笠を掛け、ひと休みしていた時のこと。そこに信重の娘である水姫がやってきて、水の入ったひしゃくを、目の前にそっと差し出します。徳翁が受け取ると、そこにはアヤメの花が一輪添えられていた―というもの。
ただ、当時は恋愛がただちに結婚に結びつくわけでもなく、さらに「僧侶への恋」「僧侶の恋」はタブーだった時代ではありますが、こんな徳翁と水姫の美しい出会いの場面を想像しながら松平郷を訪れるのも、きっと旅の味わいを深めてくれることでしょう。

運命的な出会い
  • 笠掛けの「かえで」と見初めの井戸(跡)
    笠掛けの「かえで」と見初めの井戸(跡)
    徳翁が笠を掛けたという伝説のかえでの木と、松平東照宮の氏子らにより復元された井戸。

そして、ふたつめは、水姫の父である松平信重との出会いです。
『松平氏由緒書』では、この出会いの場面をとても詳しく伝えています。

ある時、雨の日が続いたので、信重は、屋敷で連歌の会を興行することにしました。すると、見知らぬ若い僧が、遠くから座中を見学しているのに気づきます。試しに連歌の筆役(筆記役)を頼んでみると、言葉遣い所作、筆記の腕前から、知的で謙虚な人物であろうと思われました。

信重は、この僧に深く興味を持ち、「数日滞在してはどうか」とひきとめました。よほど気に入ったのでしょう、なんと半年も引き留め続けたといいます。

いよいよ本当にここを去るという時、信重は、最後の切り札として末娘・水姫との婚姻を勧めます。こうして徳翁は、還俗して入郷することになりました。

当主・松平親氏として

親氏は、松平家の当主となり松平郷の領主となります。彼は、先代である信重の生業を受け継ぎ、24人の下人にそれぞれ道具を持たせました。
信重の時代は、12人の下人に道・橋を造る12種類の道具を持たせましたが、親氏は、それに加えて12人の下人に「こしおけ」「茶ノ具」以下、12種類の新たな道具を持たといいます。 新たな道具のうちには、武具、馬具、兵糧米も挙げられています。下人・道具の種類ともに倍増です。これは土木に関する営業の範囲・規模ともに格段に拡大し、武士的地方領主へと成長したことを表現しているのでしょう。

また親氏は、訪れた先々で、飢え凍えている人々に惜しみなく「慈悲万行」を施したので、お蔵は金銀米銭で満ち満ちていたといいます。これは借銭金融にも彼の活動が及んでいたことを示唆しています。入り婿の親氏を家康につながる『初代』と数えるのは、このように、この人の時代にこそ、この家が飛躍的発展を遂げて武家領主としての確かな基礎が形作られたからでしょう。
松平に暮らす家来や領民たちは、そんな親氏を慕い、厚い忠誠で結束していたに違いありません。

当主・松平親氏として
  • 巨石の石橋
    巨石の石橋
    林添町にある石橋(長さ4.8m、幅1.8m)は、親氏時代にかけられたものと言われている。石橋に空いた穴は、石を切り出すときに打ったくさびの跡だろう。

天下泰平への願い

つねに死が隣合わせにある動乱の世で、人々の救いとは、まさに信仰でした。混沌の時代の中、いつ脅かされるかわからない新興勢力たちは、寺社の勧請や寄進を積極的に行うことで、一族の加護を求め、武運長久を願っていたのです。親氏もまた、僧となって流浪した己の厳しかったこれまでの人生を思えば、天下泰平を強く願っていたに違いありません。
親氏が遺した確実な史料は伝わっていませんが、松平郷では次のようなエピソードが伝えられています。

天下泰平への願い

1364年のある夜、親氏のもとに、六所明神が夢枕に現れ、こう言いました。
「あなたの子孫が天下を領すべき霊地は天下峰である」―。
それを聞いた親氏は、天下峰に安全寺を建立し、自ら信仰の心をこめて仁王像を彫り、山門に安置しました。

天下泰平への願い

そして、1377年には、六所山の山頂に陸奥国の鹽竈六所明神を勧請して、六所神社を創建し、松平家の氏神に。さらに同年には、親氏は、信重が援護して寛立上人が建立した寂静寺に本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進して「高月院」と改め、松平氏の菩提寺としたのです。

信心深い親氏は、朝には六所神社の社頭に向けて、額を地につけ拝礼し、夕方には、先祖の霊前に膝まずき、天下泰平を祈念するという生活を送ったと伝わっています。

天下泰平への願い

親氏がそこまで熱心に願った思い―それは、天下峰で祈願した願文にすべて記されています。

天下和順 日月清明天下は、泰平になり、太陽も月も清らかに輝き、

風雨以時 災厲不起時節よく雨が降り、風が吹き、災害や疫病も起こらない。

國豊民安 兵戈無用国は豊かに栄え、民の暮らしは安らかで、武力を行使することもない。

崇徳興仁 務修禮譲人々は、他人の良いところを尊び、礼儀良く振舞い、また譲り合うのである。

これは、高月院の寛立上人から授かった「無量寿経典」の一部をそのまま自らの願文としたもので、ここから親氏の理想とする国家や民の姿を読み取ることができます。それは、のちの家康公に続く「天下泰平」への強い思いでもありました。

  • 天下峰(眺望)
    天下峰(眺望)
    親氏が天下泰平を祈願したとされる標高360メートルの山。山頂からは、岡崎平野、濃尾平野、伊吹山、伊勢湾などが一望できる絶景ポイントがある。

西三河に領地を拡げる

領主たるもの、誰でも領地拡大を目指すものです。
親氏は、現在の岡崎市内東北部に位置する乙川沿い山間部「中山」と呼ばれる一帯に、領地を獲得したと伝えられます。
江戸時代の書『参河八代古伝集』は、次のように伝えています。

突破口は、南隣の林添村だ――そう狙いを定めた親氏は、40~50名の民を集め、夜襲を行うことにしました。
戦いの方法は、実に原始的。鎧兜などの武装はせず、持たせたのは「火袋」です。周囲が寝静まるまで闇夜に隠れ、合図とともに火をつけた袋を、林添村の領主・薮田源吾忠元の屋敷にどんどん投げ込むのです。これを合図に、一気に襲い掛かると、忠元は驚いて降伏し、続いて中山七里(「里」は「さと」の意)の領主が次々に降伏し、攻略に成功しました。

『三河物語』は、親氏は「中山拾七名」を獲得したと伝えています。「名」は「みょう」と読み、一定規模の土地を意味しています。

『松平氏由緒書』では、信重の時代とあわせて、加茂郡に9か村、額田郡に6か村を買い取ったとあります。当時は幕府-守護の統治体制が健在で、他人の土地に勝手に攻め入って土地を奪えば、幕府によって厳罰に処せられた時代です。金融活動によって、領地を拡大していったというのが真相でしょう。

親氏の時代に、松平東照宮の南にある御城山に「郷敷城」が築かれたと考えられます。
この城は、室町時代の典型的な小規模山城のスタイルで、普段は松平郷の居館にすみ、戦いの時だけここに立てこもるように作られたもの。現在、城跡は「松平氏遺跡」の名で国指定史跡とされています。本丸と二の丸があったと推定され、山腹には山を包む様に約400mの空堀の跡が残っています。現在、目にすることのできるのは、のちに改修された16世紀後半の姿です。

親氏一代では、西三河を制覇して平野を手に入れることは叶いませんでしたが、実は親氏が入手したと伝えられる「中山」一帯は、岡崎と下山を結ぶ街道の一部。親氏は、領地のみならず、物流の利権を入手して、松平家の繁栄を盤石なものにしたことでしょう。

  • 国指定史跡松平氏遺跡
    国指定史跡松平氏遺跡
    曲輪・横堀・井戸跡などの遺構が残る。『松平氏由緒書』では、親氏の次男信光(松平三代)は、岩津城に転出する以前に「郷式ノ城」に居住していたと伝わる。

親氏の魅力を語り継ぐ

  • 高月院 田中住職

    三河武士の強さを作った親氏イズム

    【高月院 田中住職】

    親氏の想いを表した「天下和順」の願文は、今の世にも伝えていきたい理想の国家や国民の姿です。何も持たない親氏が、時代の開拓者となり松平を変えることができたのは、無謀といわれるような状況下でも、いつも「守り」より「攻め」の姿勢を崩さなかったからでしょう。家康を支えた三河武士も、忠義心に厚く、勇敢な武士団として知られていますが、その仲間を思う結束の強さは、親氏の時代から受け継がれてきたものではないでしょうか。

  • 【松平東照宮 柴田宮司】

    天下泰平は、一代にしてならず

    【松平東照宮 柴田宮司】

    親氏の願文に込めた願いは、家康公の旗印「厭離穢土欣求浄土」にも見ることができます。三河の山間部の名もなき小士豪たちの頂点に立ったに過ぎない親氏が、これだけ大きな理想を描いていたことが素晴らしい。松平郷は、親氏の子孫たちがそれをしっかり受け継いで、9代先の家康公の時代に結実するという壮大な物語の舞台なのです。

<ボランティア歴史観光ガイド>

松平郷ふるさとづくり委員会
松平郷ふるさとづくり委員会

徳川家康の祖先松平氏発祥の地「松平郷」の歴史を分かりやすくガイドしています。
松平氏屋敷跡に建てられた松平東照宮、松平郷園地の親氏公像、松平氏菩提寺の高月院など、この地の史跡を歩いてめぐり、地域に伝わるとっておきの話も聞けます。(ガイド申込・詳細は、松平郷ふるさとづくり委員会 Tel-FAX 0565‐58‐1629)

参考文献:
「家康の遺宝展~松平から徳川へ~」豊田市郷土資料館/豊田市教育委員会/2016年
「松平太郎左衛門家口伝 松平氏由緒書」宇野鎮夫訳/松平親氏公顕彰会/1994年(2010年再版)
「葵のふるさと松平郷:伝承―氏祖松平親氏」/松平郷文化財保存会/1993年
徳川家康公400年祭記念大会記念誌「終わりなき夢のはじまり松平」/徳川家康公400年祭記念大会実行委員会/2016年

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