1300年代
松平郷に親氏が入郷し、松平家が誕生
1336年
(延元1)
足利尊氏室町幕府を開く。
1342–
1344年
(康永年間)
1367年
(貞治6)
太郎左衛門信重、寂静寺(後の高月院)を創建。
1374年
(応永7)
- 親氏、安全寺を創建。
1392年
(元中9)
南北朝統一。
1400年代
岡崎・三河平野へ進出し、勢力を拡大
1426年
(応永33)
当主
2代泰親
- 泰親、若一神社(岡崎市岩津町)を創建。
1429年
(永享1)
宗家当主
>3代信光
プロフ
太郎左衛門家当主
3代信広
- 泰親・信光、岩津城に移る。
1434年
(永享6)
- 親氏が簗山(豊田市王滝町)の円昭庵を妙昌寺と改め堂宇を建立。
1441年
(嘉吉1)
- 信光、大給城(長坂氏)・保久城(山下氏)を攻め、各地を占領。大給城の攻略は、巴川舟運の発着地と足助街道・新城街道の交差点を制す。(円川の戦い/豊田市中垣内町)
1451年
(宝徳3)
- 信光、菩提寺として信光明寺(岡崎市岩津町)を創建。
1465年
(寛正6)
- 信光、将軍足利義政の命をうけ、額田郡井ノ口村吉良家浪人の乱を平定する。
1467年
(応仁1)
宗家当主
4代親忠
太郎左衛門家当主
3代信広
- 親忠、井田野(岡崎市)へ侵攻した品野と伊保の軍勢と戦う。
大給松平初代乗元(信光の孫)、高祖寺(後の松明院/岡崎市細川町)を開く。
応仁の乱はじまる。(~1477)
1471年
(文明3)
宗家当主
4代親忠
太郎左衛門家当主
4代長勝
- 信光、安城城を攻略。
その後、織田氏との間で安城城の争奪戦を繰り返し、岡崎城も手中に入れた。
1475年
(文明7)
- 親忠(後の安城松平家)、大樹寺を井田野(岡崎市鴨田町)に創建。
1493年
(明応2)
- 挙母城中条氏、寺部城鈴木氏、伊保城三宅氏、上野城阿部氏、八草城那須氏など連合軍が岩津城を攻略し岡崎に迫るが、親忠は井田野で破る。(井田野合戦/岡崎市鴨田町)。
1497年
(明応6)
宗家当主
5代長勝
太郎左衛門家当主
5代勝茂
- 長親、宗家5代を継ぐ。
長親は、高月院に土地を寄進、六所神社が焼けた際も献金している。
1500年代
清康の死後、弱体化した松平家に家康誕生
1502年
(文亀2)
- 市場城址築城。初代鈴木紀伊守親信。文禄元年(1592年)まで90年間鈴木氏の居城。
1506年
(永正3)
- 長親、今川方の伊勢宗瑞と戦う(永正三河大乱)。
大給松平2代乗正、宗家を助け参戦。大給城の大修築を行なう。
1510年
(永正7)
- 長親、高月院へ田畑を寄進。
1511年
(永正8)
- 今川勢が西三河に侵入。
1517年
(永正14)
宗家当主
6代信忠
太郎左衛門家当主
5代勝茂
- 信忠、宗家6代を継ぐ。
1523年
(大永3)
宗家当主
7代清康
太郎左衛門家当主
5代勝茂
- 清康、宗家7代を継ぐ。
1524年
(大永4)
- 清康、岡崎城主松平信貞の山中城を奪い、岡崎城へ移る。
その後に足助城鈴木氏(豊田市)、吉田城牧野氏(豊橋市)、田原城戸田氏(田原氏)、宇利城熊谷氏(新城市)、品野城桜井氏(瀬戸市)、岩崎城荒川氏(日進市)を攻め、東三河、尾張に勢力拡大。
1525年
(大永5)
- 清康、足助城鈴木氏(豊田市足助町)を支配下に入れる。(飯盛城の戦)
1527年
(大永7)
- 六所神社社殿焼失。後に長親・信忠が再建のため献金。
1529年
(享禄2)
- 清康、田原城戸田氏・品野城桜井氏・岩崎城荒川氏・小島城鷹部屋氏を支配下に入れる。
1530年
(享禄3)
- 清康、宇利城熊谷氏・吉田城牧野氏を支配下に入れる。
1531年
(享禄4)
- 清康、伊保城(豊田市保見町)を攻め城主の三宅氏は広瀬城(豊田市東広瀬町)に逃れる。
1533年
(天文2)
- 清康、広瀬城三宅氏(豊田市東広瀬町)・寺部城鈴木氏(豊田市寺部町)と岩津城外で戦う。
1534年
(天文3)
宗家当主
7代清康
太郎左衛門家当主
6代信吉
- 清康、猿投神社を焼く。
猿投神社で毎年11月に行われていた法華八講において、その年の責任者の名前などを書き継いだ記録の裏側に記載がある。
1535年
(天文4)
- 清康、大樹寺に多宝塔を建立。
清康、(阿部弥七郎に)謀殺される(守山崩れ)。
井田の戦い(上野町)松平軍が織田信秀軍を破る
1537年
(天文6)
宗家当主
8代広忠
太郎左衛門家当主
6代信吉
- 広忠、岡崎城に帰還する。
1540年
(天文9)
- 織田信秀が三河に進出し、安城城を奪う。
1542年
(天文11)
- 今川義元と織田信秀が戦う(小豆坂合戦/岡崎市美合町)。
松平勢は今川義元の千峰として戦い、太郎左衛門家6代信吉討死。大給松平家が松平郷に夜討をかける。松平太郎左衛門家は領地を大給松平家に奪われ服属。
宗家当主
8代広忠
- 12月26日、竹千代(後の徳川家康)誕生。
7代太郎左衛門家親長は産湯の井戸の水を竹筒に入れ早馬で届ける。産湯の井戸水は宗家3代信光より代々使っていたといわれる。この井戸と高月院の松平氏墓所は、将軍代替のときの諸国巡検使の巡検地とされていた。
1543年
(天文12)
宗家当主
8代広忠
太郎左衛門家当主
7代親長
- 広忠、信孝の屋敷・領地を占領する。
この頃、種子島に鉄砲が伝来する。
1544年
(天文13)
- 広忠、家康の母・於大の方を離別し刈谷城水野氏と絶交する。
1545年
(天文14)
- 広忠、安城城を攻めるが、敗北。
1547年
(天文16)
- 竹千代、人質として今川義元の下へ行く途中、奪われ尾張の織田信秀のもとに送られる。
1548年
(天文17)
- 今川義元、大軍を西三河に送り込み、織田勢と戦う(第二次小豆坂合戦/岡崎市美合町)。
1549年
(天文18)
- 広忠、(岩松八弥に岡崎城内で)暗殺される。竹千代、今川氏の人質織田信広と交換され、駿府に送られる。
1532-
1554年
(天文年間)
太郎左衛門家当主
7代親長
- 大給松平4代親乗、松平郷に乱入。
1555年
(弘治1)
- 太郎左衛門家7代親長、大給松平4代親乗の下で蟹江城を攻める。
大給松平4代親乗、今川氏侵入に対し、大給山中にて戦う。
竹千代、元服し松平次郎三郎元信(後の家康)と名乗る。
1556年
(弘治2)
- 松平元信、墓参のため岡崎に一旦帰参。
大給松平4代親乗、滝脇城(豊田市滝脇町)を攻める(滝脇合戦)。滝脇松平初代乗清、2代乗遠討死。
1557年
(弘治3)
- 渡邉守綱(16歳)、松平元信(後の家康)に仕える。
1558年
(永禄1)
- 松平元信、この頃までに松平元康と改名。
松平元康の初陣。元康、織田信長の工作により今川氏から離反した寺部城鈴木氏を攻める。(家康の初陣/諸説あり)
1560年
(永禄3)
桶狭間の戦い
- 松平元康(19歳)、高月院墓参りの後で中門に松を植えたといわれる。また、妙昌寺に制札を与えた。
松平元康、織田方の三宅清高を破る(広瀬城の戦い)。
桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れたことを家康は知った後、大高、鳴海、知立、八橋、和会、上野、隣松寺を通り密かに配津村(配津町)まで来た際の出来事。配津村の船頭半三郎の案内で矢作川を渡り5月21日に大樹寺に到着。半三郎は褒美に銀銭三文と長刀一振と書付を賜ったという。
1561年
(永禄4)
- 衣城中条氏(豊田市)、織田勢に攻められ滅亡。衣(金谷)城に佐久間信盛が入る。
1562年
(永禄5)
- 松平元康、織田信長と和し、西三河を平定する。
三河一向一揆
- 上野城の酒井忠尚が離反。松平家康と対立状態。
1564年
(永禄7)
太郎左衛門家当主
8代由重
- 松平家康、酒呑鈴木氏(豊田市幸海町)を案内人として足助城の鈴木重直を攻める。(足助城の戦い)
上野城の酒井忠尚を攻める(上野城の戦い)
1566年
(永禄9)
- 松平家康、12月29日姓を徳川と改めることを天皇から許され、従五位下三河守に叙任し、三河の大名としての地位を確立。
1568年
(永禄11)
- 徳川家康、左京大夫に任ぜられる。
1569年
(永禄12)
- 大給松平5代真乗、家康の命で遠州笠居島に布陣し掛川城を守る。
1570年
(元亀1)
- 大給松平5代真乗、家康と越後の上杉輝虎との和親同盟の折衝に参加し、三越連盟の成立につくす。
家康、遠江引馬に城を築いて移り浜松と改称。岡崎城を信康に譲る。上杉輝虎と盟約し、武田信玄と絶交する。
姉川の戦い
1571年
(元亀2)
- 武田信玄・勝頼、足助城を攻略し松平地域にも侵入する。
1572年
(元亀3)
- 家康、武田信玄と三方原に戦って大敗し、浜松城に帰る。
三方原の戦い
1573年
(天正1)
足利義昭追放され、室町幕府滅ぶ。
1574年
(天正2)
- 武田勝頼、家康の高天神城を囲む。
1575年
(天正3)
- 織田・徳川連合軍、武田勝頼を設楽原で破る。勝頼敗走中、武節城による。
滝脇松平3代乗高、大給城を夜襲する。
長篠の戦い
1577年
(天正5)
- 家康、従四位下右近衛権少将に叙任。
1579年
(天正7)
- 家康に第三子秀忠誕生。信長の命で、家康の長男・信康切腹。
1581年
(天正9)
- 家康、高天神城を攻略。
1582年
(天正10)
- 家康、本能寺の変の報告を聞き、堺を発し、伊賀、伊勢、大浜を通り、岡崎城に入る。秀吉の上方平定を聞き、浜松へ帰城。甲斐・信濃の平定に向う。
本能寺の変。
豊臣秀吉が明智光秀を破る(山崎合戦)。
1583年
(天正11)
- 家康、正四位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。
賤ケ岳の戦い
1584年
(天正12)
- 家康、従三位・参議に叙任。
小牧長久手の戦い
1585年
(天正13)
羽柴秀吉、関白となる。
1586年
(天正14)
- 家康、秀吉と講和。秀吉の妹・旭姫と浜松城で婚儀を行う。権中納言に任ぜられる。大坂城で秀吉に謁見する。正三位に叙せられる。駿府に居城を移す。
秀吉、太政大臣となり豊臣の姓を賜る。
1587年
(天正15)
- 家康、従二位権大納言に叙任。
秀吉、九州を平定する。
1588年
(天正16)
秀吉、刀狩令を出す。
1589年
(天正17)
- 家康、天正検地が行なわれ諸郷村に「七か条御定書」が出される。
秀吉、小田原・奥州を平定し、全国を統一する。
1591年
(天正19)
- 家康、奥羽平定に出陣。
1592年
(文禄1)
- 家康、肥前名護屋に下向。
文禄の役
1593年
(文禄2)
- 家康、秀吉に続いて肥前名護屋より大坂に帰陣。
豊臣秀頼誕生
1595年
(文禄4)
- 家康、毛利輝元・小早川隆景と共に、秀吉・秀頼父子に異心のない事を誓う。
1596年
(慶長1)
- 家康、正二位内大臣叙任。
1597年
(慶長2)
慶長の役
1598年
(慶長3)
- 秀吉、家康・利家等に秀頼を托して死去。家康・利家、五奉行と誓書を交換。
1600年代
徳川家康が江戸時代を築き、天下泰平を実現
1600年
(慶長5)
- 家康、関ヶ原で石田三成の西軍を破る。第九子義直(尾張藩初代)誕生。
家康、大名の国替えを行ない三河国に8藩が置かれる。
関ヶ原の戦い
1601年
(慶長6)
- 家康、高月院に寺領100石を与え、松平郷に諸役免除の恩典を与える。
1602年
(慶長7)
- 家康、六所神社へ初穂料20石を寄進。
家康、従一位に叙任。
1603年
(慶長8)
太郎左衛門家当主
9代尚栄
- 家康、右大臣に任ぜられ、征夷大将軍となる。
家康、妙昌寺に寺領20石寄進する。
家康、江戸幕府を開く。
1605年
(慶長10)
太郎左衛門家当主
9代尚栄
- 秀忠、征夷大将軍となり、内大臣を兼ね正二位に叙せられる。
1606年
(慶長7)
- 家康、上洛のため江戸を発し、駿府に到着、退隠の地と定める。
榊原康政、死去。
1607年
(慶長12)
- 家康、義直を尾張に移封。
1608年
(慶長13)
- 家康、駿府城の竣工した殿舎に移る。
1609年
(慶長14)
- 家康、義利(義直)と共に清須城に入り、名古屋の城地を視察する。
1611年
(慶長16)
- 家康、秀頼を二条城に迎えて会見。在京の諸大名に三カ条の法令を提示して誓約させる。
後陽成天皇譲位。後水尾天皇。
1612年
(慶長17)
- 家康、キリスト教を禁止する。
1613年
(慶長18)
- 渡邉守綱、5000石加増され、尾張藩徳川義直に属する。
1614年
(慶長19)
- 衣藩主三宅康貞、新たに陣屋を設ける。
衣(金谷)城主・原勝清、常陸国塙城に転封し、衣(金谷)城廃城。
家康、方広寺の鐘の銘文事件により、諸大名に大坂討伐を命ず。
大坂冬の陣
1615年
(元和1)
- 家康、大坂城総攻撃。二条城に入る。禁中公家諸法度を定める。
大坂夏の陣。
秀忠、武家諸法度・諸宗本山本寺の諸法度を定める。
1616年
(元和2)
- 家康、駿河田中に放鷹の際、発病して帰る。太政大臣に任ぜられる。4月17日死去。夜、遺言により遺体を駿河久能山に移す。
1617年
(元和3)
- 家康、「東照大権現」の神号を勅許され「正一位」がおくられる。4月8日家康の遺体が日光に改葬される。
1619年
(元和3)
- 松平東照宮、駿州久能山東照宮より勧請されてできる。