歴史年表|豊田の歴史巡り

歴史年表

歴史年表
HISTORY

松平家誕生からはじまる激動の300年を年表で紹介。
時代の波にもまれ、浮き沈みを味わいながらも脈々と続いてきた松平家の系譜を人物とともにたどってみてください。

・・・ 関連する観光スポット情報

参考文献:平成27年度豊田市郷土資料館特別展 徳川家康公400年祭記念事業「家康の遺宝展~松平から徳川へ~」

1300年代

松平郷に親氏が入郷し、松平家が誕生

1336

(延元1)

足利尊氏室町幕府を開く。

1342–
1344

(康永年間)

太郎左衛門信盛、松平郷に入る。
末氏の慰信盛が諸国を遍歴した末に松平郷に定着した。(松平氏由緒書)/ 信盛は周囲の山に松が多かったため外下山郷から松平郷に改名「松平太郎左衛門信盛」と称す。(松平村史)

1367

(貞治6)

太郎左衛門信重、寂静寺(後の高月院)を創建。

1377

(永和3)

当主

当主

初代親氏
プロフ

コラムを読む

親氏、三河の霊山のひとつと言われる六所山に奥州塩釜六所明神を勧請し六所神社創建。(松平家一党の氏神)

1374

(応永7)

親氏、安全寺を創建。

1392

(元中9)

南北朝統一。

1400年代

岡崎・三河平野へ進出し、勢力を拡大

1426

(応永33)

当主

当主

2代泰親

泰親、若一神社(岡崎市岩津町)を創建。

1429

(永享1)

宗家当主

宗家当主

>3代信光
プロフ

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

3代信広

泰親・信光、岩津城に移る。

1434

(永享6)

親氏が簗山(豊田市王滝町)の円昭庵を妙昌寺と改め堂宇を建立。

1441

(嘉吉1)

信光、大給城(長坂氏)・保久城(山下氏)を攻め、各地を占領。大給城の攻略は、巴川舟運の発着地と足助街道・新城街道の交差点を制す。(円川の戦い/豊田市中垣内町)

1451

(宝徳3)

信光、菩提寺として信光明寺(岡崎市岩津町)を創建。

1465

(寛正6)

信光、将軍足利義政の命をうけ、額田郡井ノ口村吉良家浪人の乱を平定する。

1467

(応仁1)

宗家当主

宗家当主

4代親忠

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

3代信広

親忠、井田野(岡崎市)へ侵攻した品野と伊保の軍勢と戦う。
大給松平初代乗元(信光の孫)、高祖寺(後の松明院/岡崎市細川町)を開く。

応仁の乱はじまる。(~1477)

1471

(文明3)

宗家当主

宗家当主

4代親忠

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

4代長勝

信光、安城城を攻略。
その後、織田氏との間で安城城の争奪戦を繰り返し、岡崎城も手中に入れた。

1475

(文明7)

親忠(後の安城松平家)、大樹寺を井田野(岡崎市鴨田町)に創建。

1493

(明応2)

挙母城中条氏、寺部城鈴木氏、伊保城三宅氏、上野城阿部氏、八草城那須氏など連合軍が岩津城を攻略し岡崎に迫るが、親忠は井田野で破る。(井田野合戦/岡崎市鴨田町)。

1497

(明応6)

宗家当主

宗家当主

5代長勝

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

5代勝茂

長親、宗家5代を継ぐ。
長親は、高月院に土地を寄進、六所神社が焼けた際も献金している。

1500年代

清康の死後、弱体化した松平家に家康誕生

1502

(文亀2)

市場城址築城。初代鈴木紀伊守親信。文禄元年(1592年)まで90年間鈴木氏の居城。

1506

(永正3)

長親、今川方の伊勢宗瑞と戦う(永正三河大乱)。
大給松平2代乗正、宗家を助け参戦。大給城の大修築を行なう。

1510

(永正7)

長親、高月院へ田畑を寄進。

1511

(永正8)

今川勢が西三河に侵入。

1517

(永正14)

宗家当主

宗家当主

6代信忠

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

5代勝茂

信忠、宗家6代を継ぐ。

1523

(大永3)

宗家当主

宗家当主

7代清康

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

5代勝茂

清康、宗家7代を継ぐ。

1524

(大永4)

清康、岡崎城主松平信貞の山中城を奪い、岡崎城へ移る。
その後に足助城鈴木氏(豊田市)、吉田城牧野氏(豊橋市)、田原城戸田氏(田原氏)、宇利城熊谷氏(新城市)、品野城桜井氏(瀬戸市)、岩崎城荒川氏(日進市)を攻め、東三河、尾張に勢力拡大。

1525

(大永5)

清康、足助城鈴木氏(豊田市足助町)を支配下に入れる。(飯盛城の戦)

1527

(大永7)

六所神社社殿焼失。後に長親・信忠が再建のため献金。

1529

(享禄2)

清康、田原城戸田氏・品野城桜井氏・岩崎城荒川氏・小島城鷹部屋氏を支配下に入れる。

1530

(享禄3)

清康、宇利城熊谷氏・吉田城牧野氏を支配下に入れる。

1531

(享禄4)

清康、伊保城(豊田市保見町)を攻め城主の三宅氏は広瀬城(豊田市東広瀬町)に逃れる。

1533

(天文2)

清康、広瀬城三宅氏(豊田市東広瀬町)・寺部城鈴木氏(豊田市寺部町)と岩津城外で戦う。

1534

(天文3)

宗家当主

宗家当主

7代清康

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

6代信吉

清康、猿投神社を焼く。
猿投神社で毎年11月に行われていた法華八講において、その年の責任者の名前などを書き継いだ記録の裏側に記載がある。

1535

(天文4)

清康、大樹寺に多宝塔を建立。
清康、(阿部弥七郎に)謀殺される(守山崩れ)。

井田の戦い(上野町)松平軍が織田信秀軍を破る

1537

(天文6)

宗家当主

宗家当主

8代広忠

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

6代信吉

広忠、岡崎城に帰還する。

1540

(天文9)

織田信秀が三河に進出し、安城城を奪う。

1542

(天文11)

今川義元と織田信秀が戦う(小豆坂合戦/岡崎市美合町)。
松平勢は今川義元の千峰として戦い、太郎左衛門家6代信吉討死。大給松平家が松平郷に夜討をかける。松平太郎左衛門家は領地を大給松平家に奪われ服属。

宗家当主

宗家当主

8代広忠

12月26日、竹千代(後の徳川家康)誕生。
7代太郎左衛門家親長は産湯の井戸の水を竹筒に入れ早馬で届ける。産湯の井戸水は宗家3代信光より代々使っていたといわれる。この井戸と高月院の松平氏墓所は、将軍代替のときの諸国巡検使の巡検地とされていた。

1543

(天文12)

宗家当主

宗家当主

8代広忠

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

7代親長

広忠、信孝の屋敷・領地を占領する。

この頃、種子島に鉄砲が伝来する。

1544

(天文13)

広忠、家康の母・於大の方を離別し刈谷城水野氏と絶交する。

1545

(天文14)

広忠、安城城を攻めるが、敗北。

1547

(天文16)

竹千代、人質として今川義元の下へ行く途中、奪われ尾張の織田信秀のもとに送られる。

1548

(天文17)

今川義元、大軍を西三河に送り込み、織田勢と戦う(第二次小豆坂合戦/岡崎市美合町)。

1549

(天文18)

広忠、(岩松八弥に岡崎城内で)暗殺される。竹千代、今川氏の人質織田信広と交換され、駿府に送られる。

1532-
1554

(天文年間)

宗家当主

宗家当主

9代家康
プロフ

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太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

7代親長

大給松平4代親乗、松平郷に乱入。

1555

(弘治1)

太郎左衛門家7代親長、大給松平4代親乗の下で蟹江城を攻める。
大給松平4代親乗、今川氏侵入に対し、大給山中にて戦う。
竹千代、元服し松平次郎三郎元信(後の家康)と名乗る。

1556

(弘治2)

松平元信、墓参のため岡崎に一旦帰参。
大給松平4代親乗、滝脇城(豊田市滝脇町)を攻める(滝脇合戦)。滝脇松平初代乗清、2代乗遠討死。

1557

(弘治3)

渡邉守綱(16歳)、松平元信(後の家康)に仕える。

1558

(永禄1)

松平元信、この頃までに松平元康と改名。
松平元康の初陣。元康、織田信長の工作により今川氏から離反した寺部城鈴木氏を攻める。(家康の初陣/諸説あり)

1560

(永禄3)

桶狭間の戦い

松平元康(19歳)、高月院墓参りの後で中門に松を植えたといわれる。また、妙昌寺に制札を与えた。

松平元康、織田方の三宅清高を破る(広瀬城の戦い)。

桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れたことを家康は知った後、大高、鳴海、知立、八橋、和会、上野、隣松寺を通り密かに配津村(配津町)まで来た際の出来事。配津村の船頭半三郎の案内で矢作川を渡り5月21日に大樹寺に到着。半三郎は褒美に銀銭三文と長刀一振と書付を賜ったという。

1561

(永禄4)

衣城中条氏(豊田市)、織田勢に攻められ滅亡。衣(金谷)城に佐久間信盛が入る。

1562

(永禄5)

松平元康、織田信長と和し、西三河を平定する。

1563

(永禄6)

松平元康、7月6日家康と改名し、松平家康となる。
家康「三河守」となる。
家康、寺部城主鈴木重教を攻める(寺部城攻略)

三河一向一揆

上野城の酒井忠尚が離反。松平家康と対立状態。

1564

(永禄7)

宗家当主

宗家当主

9代家康
プロフ

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太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

8代由重

松平家康、酒呑鈴木氏(豊田市幸海町)を案内人として足助城の鈴木重直を攻める。(足助城の戦い)
上野城の酒井忠尚を攻める(上野城の戦い)

1566

(永禄9)

松平家康、12月29日姓を徳川と改めることを天皇から許され、従五位下三河守に叙任し、三河の大名としての地位を確立。

1568

(永禄11)

徳川家康、左京大夫に任ぜられる。

1569

(永禄12)

大給松平5代真乗、家康の命で遠州笠居島に布陣し掛川城を守る。

1570

(元亀1)

大給松平5代真乗、家康と越後の上杉輝虎との和親同盟の折衝に参加し、三越連盟の成立につくす。
家康、遠江引馬に城を築いて移り浜松と改称。岡崎城を信康に譲る。上杉輝虎と盟約し、武田信玄と絶交する。

姉川の戦い

1571

(元亀2)

武田信玄・勝頼、足助城を攻略し松平地域にも侵入する。

1572

(元亀3)

家康、武田信玄と三方原に戦って大敗し、浜松城に帰る。

三方原の戦い

1573

(天正1)

足利義昭追放され、室町幕府滅ぶ。

1574

(天正2)

武田勝頼、家康の高天神城を囲む。

1575

(天正3)

織田・徳川連合軍、武田勝頼を設楽原で破る。勝頼敗走中、武節城による。
滝脇松平3代乗高、大給城を夜襲する。

長篠の戦い

1577

(天正5)

家康、従四位下右近衛権少将に叙任。

1579

(天正7)

家康に第三子秀忠誕生。信長の命で、家康の長男・信康切腹。

1581

(天正9)

家康、高天神城を攻略。

1582

(天正10)

家康、本能寺の変の報告を聞き、堺を発し、伊賀、伊勢、大浜を通り、岡崎城に入る。秀吉の上方平定を聞き、浜松へ帰城。甲斐・信濃の平定に向う。

本能寺の変。
豊臣秀吉が明智光秀を破る(山崎合戦)。

1583

(天正11)

家康、正四位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。

賤ケ岳の戦い

1584

(天正12)

家康、従三位・参議に叙任。

小牧長久手の戦い

1585

(天正13)

羽柴秀吉、関白となる。

1586

(天正14)

家康、秀吉と講和。秀吉の妹・旭姫と浜松城で婚儀を行う。権中納言に任ぜられる。大坂城で秀吉に謁見する。正三位に叙せられる。駿府に居城を移す。

秀吉、太政大臣となり豊臣の姓を賜る。

1587

(天正15)

家康、従二位権大納言に叙任。

秀吉、九州を平定する。

1588

(天正16)

秀吉、刀狩令を出す。

1589

(天正17)

家康、天正検地が行なわれ諸郷村に「七か条御定書」が出される。

1590

(天正18)

家康、秀吉に関東移封を命ぜられる。江戸城に入る。
榊原康政、上野国館林10万石を家康より賜る。
内藤家長、上総国佐貫2万石を家康より賜る。

秀吉、小田原・奥州を平定し、全国を統一する。

1591

(天正19)

家康、奥羽平定に出陣。

1592

(文禄1)

家康、肥前名護屋に下向。

文禄の役

1593

(文禄2)

家康、秀吉に続いて肥前名護屋より大坂に帰陣。

豊臣秀頼誕生

1595

(文禄4)

家康、毛利輝元・小早川隆景と共に、秀吉・秀頼父子に異心のない事を誓う。

1596

(慶長1)

家康、正二位内大臣叙任。

1597

(慶長2)

慶長の役

1598

(慶長3)

秀吉、家康・利家等に秀頼を托して死去。家康・利家、五奉行と誓書を交換。

1600年代

徳川家康が江戸時代を築き、天下泰平を実現

1600

(慶長5)

家康、関ヶ原で石田三成の西軍を破る。第九子義直(尾張藩初代)誕生。
家康、大名の国替えを行ない三河国に8藩が置かれる。

関ヶ原の戦い

1601

(慶長6)

家康、高月院に寺領100石を与え、松平郷に諸役免除の恩典を与える。

1602

(慶長7)

家康、六所神社へ初穂料20石を寄進。
家康、従一位に叙任。

1603

(慶長8)

宗家当主

宗家当主

9代家康
プロフ

コラムを読む

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

9代尚栄

家康、右大臣に任ぜられ、征夷大将軍となる。
家康、妙昌寺に寺領20石寄進する。

家康、江戸幕府を開く。

1605

(慶長10)

太郎左衛門家当主

太郎左衛門家当主

9代尚栄

秀忠、征夷大将軍となり、内大臣を兼ね正二位に叙せられる。

1606

(慶長7)

家康、上洛のため江戸を発し、駿府に到着、退隠の地と定める。
榊原康政、死去。

1607

(慶長12)

家康、義直を尾張に移封。

1608

(慶長13)

家康、駿府城の竣工した殿舎に移る。

1609

(慶長14)

家康、義利(義直)と共に清須城に入り、名古屋の城地を視察する。

1610

(慶長15)

渡邉守綱、三河国加茂郡寺部に陣屋を設ける。

1611

(慶長16)

家康、秀頼を二条城に迎えて会見。在京の諸大名に三カ条の法令を提示して誓約させる。

後陽成天皇譲位。後水尾天皇。

1612

(慶長17)

家康、キリスト教を禁止する。

1613

(慶長18)

渡邉守綱、5000石加増され、尾張藩徳川義直に属する。

1614

(慶長19)

衣藩主三宅康貞、新たに陣屋を設ける。
衣(金谷)城主・原勝清、常陸国塙城に転封し、衣(金谷)城廃城。
家康、方広寺の鐘の銘文事件により、諸大名に大坂討伐を命ず。

大坂冬の陣

1615

(元和1)

家康、大坂城総攻撃。二条城に入る。禁中公家諸法度を定める。

大坂夏の陣。
秀忠、武家諸法度・諸宗本山本寺の諸法度を定める。

1616

(元和2)

家康、駿河田中に放鷹の際、発病して帰る。太政大臣に任ぜられる。4月17日死去。夜、遺言により遺体を駿河久能山に移す。

1617

(元和3)

家康、「東照大権現」の神号を勅許され「正一位」がおくられる。4月8日家康の遺体が日光に改葬される。

1619

(元和3)

松平東照宮、駿州久能山東照宮より勧請されてできる。

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