渡邉 守綱|武将コラム|豊田の歴史巡り

武将コラム

Vol.4

渡邉 守綱

「槍半蔵」と呼ばれ、
徳川十六将のひとりとなった
最強のしんがり

渡邉 守綱

Moritsuna Watanabe

渡邉守綱は、「槍半蔵」と讃えられ、徳川十六将にも数えられた武将。槍の名手で、戦場では味方の最後尾で敵と戦いながら、味方を逃がす「しんがり」を務め、何度も家康軍の危機を救いました。晩年には初代尾張藩主・義直の補佐を行い、「寺部城」主としても、領民のために尽くすなど、79歳の人生を休むことなく走り続けます。

渡邉 守綱(わたなべ もりつな)

味方の危機を救い「槍半蔵」と称えられる

家康と同い年の守綱は、1542(天文11)年に、三河国碧海郡浦部(岡崎市)で生まれました。
渡邉守綱の家は平安時代に活躍した「渡邉綱」の子孫を自認していました。渡邉綱は、摂津源氏源頼光に仕え、源家相伝の刀「髭切」で京の一条戻橋において鬼の腕を斬って退治したとされる、伝説的な豪傑武士です。渡邉家では「綱」という字を大切にして、代々の名前にこの一字を用いています。

代々松平家に仕えている家系に生まれた守綱は、1557(弘治3)年16歳の時に家康に仕え始めたといいます。竹千代(のちの家康)が、駿府(静岡市)の今川義元のもとで元服を遂げたのは、その前年のことでした。守綱は手足が長かったといわれ、槍の名手として頭角を現しました。1560(永禄3)年の桶狭間合戦後に家康が水野信元(刈谷城主)を攻めた石ヶ瀬合戦(大府市)において敵の首を取ったのが、初陣とされています。翌年、家康が織田信長との同盟に転じ、東三河の今川氏真方である長澤城(豊川市)を攻めた際にも、敵将小原藤十郎を討ち取りました。家康から「小原は氏真にも名を知られた猛者侍であるぞ!」と、お褒めの言葉を頂戴しています。

1562(永禄5)年の八幡の戦い(豊川市)でのこと。先鋒が総崩れになったところを、守綱が、逃げる味方の最後尾に立ちはだかり、三度も敵と返し合わせ、負傷した矢田作十郎ら味方を退却させるなどの大活躍を見せました。首実検の場で家康は、守綱の抜群の功績をとくに褒め讃えました。これ以来、世に「槍半蔵」と、知られることとなりました。
続く小坂井の戦い(豊川市)では、退却時に深手を負い動けなくなった仲間の一人が懇願するのを見かねて、肩に担いで戻ってきたといいますから、まさにヒーロー級の大活躍!もちろん、家康はその奮闘ぶりを大いに讃えました。

自らの信仰を貫き、主君と戦った「三河一向一揆」

このころ、三河国西部を流れる矢作川流域では、鎌倉時代以来、浄土真宗本願寺派(一向宗)が隆盛をきわめ、三河における本願寺教団の頂点に立つ本宗寺(岡崎市)を支える本證寺(安城市)・上宮寺・勝蔓寺(以上、岡崎市)の三河三か寺は、100以上もの末寺・道場と門徒を束ねていました。これらの寺々は、境内伽藍と門前住民の生活地とを不可分一体の空間とし、その外周を環濠で取り囲んだ景観、すなわち「寺内」を形成していました。
家康の父・松平広忠は、「寺内」に対して「守護不入」を認めました。これは、「寺内」については、「世俗権力からの年貢その他の課役は免除し、また、領主の警察権・成敗権も及ばない」という特権です。いわば、経済特区ですから、商取引の拠点としても栄えました。
浄土真宗では、信者のことを「門徒」と呼びます。家康の家臣のうちにも、門徒侍が多くいました。門徒侍たちは、日頃、門徒の商業活動など、生活の中で生じたトラブルの解決などに際しても、「押しの効く」人として一役かっていました。

1563(永禄6)年、収穫の秋を迎えるにあたって、家康は、今川氏との戦いをやり遂げるため、家臣らに兵糧米の備えを怠らぬよう指示したようです。その結果、家康の侍と門徒商人との間に、米や銭の貸し借りをめぐる緊張・もめごとが高じ、ついには刃傷沙汰まで起こってしまいました。
事件解決のために本證寺に入った家臣が切りつけられたのに激怒した家康は、先例に反して「守護不入は無効!」と宣告しました。一方的な家康のやり方に、僧侶や門徒衆はこぞって反発し、兵糧米調達をストップ。さらには、「寺内」外回りの環濠を深く掘り下げ、土塁を築くなどして「寺内」を城塞化し、籠城戦に備えました。――「三河一向一揆」の始まりです。

  • 隨應院
    徳川家康初陣の地といわれる地に立つ浄土宗のお寺です。寺部は槍の半蔵で知られる渡邉守綱(尾張徳川家の家臣)の領地で、ここには渡邉家の夫人の墓所があります。蓮の名所としても知られています。

熱心な一向宗の門徒であった守綱にとって、「主君への忠誠か、はたまた信仰か」といえば、大げさに聞こえてしまいますが、彼ら門徒侍にとって信仰とは、日頃からのお寺や門徒仲間とのつきあいそのものです。どっちを守るべきかの選択に迫られ、守綱は思い悩んだと思われます。その末に、彼は信仰を選び、一揆側につきます。とはいえ、守綱をはじめ門徒侍たちは、主君家康を倒すことまでは考えていなかったので、戦場に家康が現れると、対峙する事態とならぬよう、すぐさま退却しています。
年を越えて、お互い、砦(城)や寺を攻め、かたや、守る側は砦や寺の門から繰り出して周辺で戦う形で、局地戦が各方面で繰り広げられました。守綱は勝蔓寺を守り、つわものとして名を知られた鵜殿十郎三郎ほか何人もの敵を倒す活躍を見せます。しかし、彼の父は、逃げ遅れた守綱をかばって矢を受けてしまい、守綱が担いで勝蔓寺まで運び込んだものの、その夜に息を引き取っています。
各方面で一進一退の戦いが続きましたが、2月になって、初めての本格的野戦となった馬頭が原の戦い(岡崎市)で家康軍が大勝利すると、一揆側から和睦の申し入れがなされました。家康は拒否する考えでしたが、一揆鎮圧に加勢してくれた水野信元や家臣の説得を受け入れ、和睦に応じました。「寺のことは、前々のとおり」との条件で和睦が成立し、一揆側は籠城を解きました。しかし、家康はその後に和睦条件を事実上撤回し、本願寺派僧侶の領国外追放を断行しました。半年間に及ぶ戦いは、ついに一揆側の完全敗北で決着したのです。

家康に歯向かった形になった守綱は、その後どうなったのでしょうか。
家康は守綱を赦しました。そして父の遺領である浦部村の内130貫文の地を継ぐことを認めました。一揆側についた侍たちのうち、再び家康に仕えることを認められたのは、ごく限られた者だけで、その他の侍たちは、家康領国を去らなければなりませんでした。
家康が守綱を家臣のうちに残すと決めたのは、彼の戦場における武勇の実績のみならず、わが身の危険を顧みず仲間を助ける義理堅さ、献身的な人柄を評価したからだと思われます。家康の寛大な措置によって、帰参が叶った家臣たちは、家康への忠誠を尽くす意思を固めました。
家康の三大危機のひとつとされる三河一向一揆ですが、この一揆があったことにより結果として、“雨降って地固まる”という言葉通りの結末に。家康はこれ以降、家臣団の組織化を進めていきます。

40歳近くまで足軽頭として戦場の最前線に立つ

守綱は、槍一本で生涯を切り拓いた男です。戦が始まると、部隊の先陣をきって飛び込んでいき、危うくなると、撤退する味方を最後尾で守る「しんがり」として、命を張ってきました。しかし、剛毅だけで、数々の戦場を生き抜けるものではありません。
守綱には、戦況を冷静に見極める観察力・判断力が備わっていました。これこそが彼に強運をもたらしたといえます。三方ヶ原の戦いでは、圧倒的な兵力をほこる武田軍の攻撃に蹴散らされた徳川軍は、散り散りになってしまいました。守綱は、敵の目をかいくぐり、沼を下半身裸になって渡るなどしながら逃避行を続け、途中で落ち合った仲間と励ましあい、家康が居る浜松城に帰還しました。
たどり着いた玄黙口(げんもくぐち)の城門には、すでに武田軍が達していて矢が飛び交う攻防戦となっていました。なんとか城門をくぐり抜けたのちも、休まず玄黙口防衛戦に加わります。立派な馬に乗り歩兵五六人を引き連れた敵の大将格が現れたのを見て、守綱らは城門を開き討ち取りに打って出ました。この武田武者が徳川方の兵を倒したのちに馬に乗りそこねてしまい、転げ落ちたところを守綱が槍で仕留めました。ラッキーな大物討ち取りです。
何度も負傷しながら、味方を守り抜いた戦場の守護神・守綱は、家康が江戸に移ったときには武蔵国で3,000石の領地を拝領し、預けられる足軽も増えて50人に達していましたが、足軽頭のまま。つまり、参謀格への昇格はありませんでした。時代の移り変わりの中で、武力から知力へと求められるものが変わったということですが、そんな…あんまりだ…。でも守綱自身は、戦場においては最前線に身をさらすことに一番のやりがいを感じており、それが「槍半蔵」の真骨頂でした。

さすが、やはりあの方は見ていました。そうです、家康です。
1600(慶長5)年、守綱59歳。時は移って豊臣秀吉はすでにこの世の人ではありませんが、豊臣政権は存続しています。政権を支える家康は、会津の上杉景勝討伐を命ずべく大阪城西の丸に諸大名を集めました。その席で、家康は守綱を呼び、諸大名の前で「おまえは私と同じ年齢で、長年忠義を尽くし、戦功をあげてくれた。これを身に着け、若い頃のような意欲を持って、さらにもう一働きしてほしい」と、南蛮銅具足を贈ってくれたのです!
この南蛮銅具足、ヨーロッパの甲冑のデザインを模したモダンなもの。守綱だけでなく、その場にいた家臣たちも、これまで見たことのない美しさ、カッコ良さに驚いたことでしょう。
このとき、守綱にはこれまでに加えてさらに50人の足軽が預けられ、合わせて100人を率いることになりました。
ただ、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い(守綱43歳)、1590(同18)年の小田原攻め、1600年の関ヶ原の戦いでは、いずれも、守綱は足軽を率いて本陣の家康のそばに控えており、関ヶ原の戦いでは家康に陣地移動を進言したりもしています。さすがに40歳を過ぎてからは、最前線で槍を振るうことはなかったようです。
家康は守綱に「紺地に「手桶」の紋を白く染め抜いた旗指物を使うように」と命じたと伝えられています。
手桶とは、「(守綱の名である)半蔵=半盥(はんぞう=たらいのこと)=手桶」という洒落。家康初陣の寺部城攻めの際に鈴木氏を破ることができたのは、守綱の功績が大きかったため「各々“手を置け(手桶)” =寺部は半蔵に一目置け」という意味があったと、寺部では伝わっています。

  • 長篠・長久手合戦図屏風(豊田市・豊田市郷土資料館)
    尾張藩付家老・犬山藩成瀬家に伝来する長篠の戦いと長久手の戦いを一対で描いた「長篠・長久手合戦図屏風」の写本です。原本は成瀬正一、正成親子が同合戦に参戦し、徳川家康配下での武功を顕著な構図で描いているが、本図は忠実な写ではなく渡邊守綱の活躍が強調されている点に大きな特色があります。成瀬家から渡邊家に養女となった姫君ゆかりの資料と伝えられています。

尾張藩初代義直の付家老となり、大名級の石高を拝領

1613(慶長18)年、家康は九男義直を藩主として尾張藩を創設するにあたり、守綱を呼び、次のように、新たな任務を命じました。
「まだ幼い義直は、あらゆることに指南が必要だろうから、ぜひそばで補佐してやってほしい。尾張は西国・上方への抑えとして大切な場所だから、いざとなれば関東の先陣となって指揮を取ってほしい」。
そして、最後にこう付け加えました。「ただし、義直がおまえを疎んじるようになったなら、戻ってこい」と。これは、本庁勤めの国家公務員が地方勤務を命じられたイメージでしょうか…いずれにしても、家康の言葉には、戦乱の世を生き延びて自分を支え続けてきた守綱の人格と経験に対する強い信頼、そして彼への深い思いやりを感じますね。思いやりは、言葉だけではありませんでした。守綱には、尾張で5,000石と三河で5,000石の領地が与えられました。これ以前の武蔵の3,000石、関ヶ原の戦い後に近江で与えられていた1,000石もそのまま。合わせて14,000石という、大名級の領地を持つことになりました。100人の足軽も、もとのままです。

こうして、渡邉家は、尾張藩に属しながら、幕府からも領地を与えられるという特殊な家となりました。不思議なのは、通常1万石以上が大名家とされる中で、14,000石もありながら、さらに尾張藩の家老を務めた家でもあったのに、江戸時代を通して渡邉家は大名家とはならかったこと。しかし、決して幕府に軽んじられているわけではなく、江戸初期には、将軍に謁見できるなど、大名に匹敵する家格として処遇されています。これもすべて、守綱の功績といえるでしょう。

寺部の名君として代々続いた渡邉家

さて、尾張藩に属すこととなった守綱は、戦国期において鈴木氏の城であった寺部城の地に、陣屋を設けます。大名ではないので公式には陣屋ですが、この陣屋のことを、江戸時代に「寺部城」と称することもありました。
寺部陣屋の周囲は、陣屋を中心に、西町・本町・新町・田町・新屋町といった町屋が広がり、城下町を形成。矢作川の川湊である平江湊に近く、また足助を抜け善光寺へ向かう善光寺街道が通る流通・交通拠点の要衝であり、文化的にも栄えました。

しかし、たびたび起こる矢作川の洪水は、寺部の人たちの悩みの種でもありました。1609(慶長14)年の水害では、寺部村付近で川の流路が変わり、多くの耕地が失われました。守綱は、農民の生活を守るため、荒れた河原を何度も検分して築堤工事をすることを決め、尾張藩から借金をしたり、幕府に国役普請*を願い出たりしながら、市木川の合流点から梅坪弁財天までの 280 間(約 500m)に及ぶ堤防工事がスタートします。
*自領側の堤防を強化すれば、対岸の他領側に洪水を誘導することになるので、幕府が介在して工事の調整をすることがありました。幕府が介在する土木工事のことを、「国役普請」といいます。

1614(慶長19)年に大坂冬の陣が起こると、徳川義直出陣にあたり、守綱は先陣の大将として息子の重綱とともに74歳にして出陣し、義直の初陣を飾っています。翌年の夏の陣では、家康から「守綱は、義直のかたわらにおれ。先陣は重綱に任せよ」と、とくに指示がありました。
さて、守綱と足軽たちは、戦が終わると寺部に戻り、堤防工事を継続しました。人々は足軽100人の働きに感謝して、この堤防を 「百人堤」と呼んだと伝わっています。

守綱は、1620(元和)年、名古屋において79歳で亡くなりました。三代治綱が創建した守綱寺には渡邉家歴代の墓所があり、いまも静かに寺部を見守っています。

  • 寺部城
    寺部城は15世紀、文明年中鈴木重時によって築城された城です。のちに尾州徳川家の家老職(初代渡邉守綱)の居城(陣屋)となりました。
  • 旧松本家長屋門
    寺部領主・渡邉半蔵家の家臣であった松本家に残された江戸時代の長屋門。内部の展示では寺部の歴史や松本家について紹介しています。
  • 守綱寺
    旧寺部領主渡邉家の菩提所で3代、治綱(はるつな)によって創建されたものです。
    渡邉家は三河時代からの徳川家の家臣で、初代は槍で名高い半蔵守綱(はんぞうもりつな)です。

家康の魅力を語り継ぐ

  • 令和5年度寺部自治区長
    旧松本家長屋門ガイドリーダー 渡邉和夫さん

    【渡邉和夫さん】

    私の曾祖父は、渡邉家十代規綱の息子で茶人として知られた渡邉織衛正綱。つまり、渡邉半蔵家の分家にあたります。
    残念ながら昭和34年の伊勢湾台風で、まちの様子ががらりと変わってしまいましたが、それまでは、寺部は藁屋根の家がほとんどでした。矢作川の堤防の草を各家で分けて、牛やヤギのエサにしたり、河原を畑にして野菜を育てたり、山で採れるきのこを分けたり。そのころは、白い土塀に囲まれた渡邉家のお屋敷がまだありました。
    現在も、旧家臣の家の長屋門が残っていますし、守綱寺や随應院、寺部城跡もあります。私は、寺部に伝わる「寺部雅楽」の指導や歴史講演、地域ガイドなどの活動を通じて、鈴木家や渡邉家が治めた寺部の歴史を次世代に伝えています。ぜひ寺部へお越しください。

  • 守綱寺 住職 渡邉貴之さん

    【守綱寺 住職 渡邉貴之さん】

    守綱寺は、三河一向一揆で家康に刃向かった一向宗の大将・渡邉高綱の子であり、一揆平定後に家康を支えた十六神将「渡邉守綱」の名が、お寺の名前となっています。
    家康と同年齢の守綱は槍の名手で、槍の半蔵と呼ばれ、家康の信頼も厚かったと聞いております。家来だった門徒さんたちの多くは、家康と同じ浄土宗に改宗されましたが、渡邉さんは信仰を捨てませんでした。
    尾張徳川家ができた時、犬山の成瀬家、海津の竹腰家とともに、渡邉家は軍事担当家老として、高橋の庄(中心が寺部)を拝領し、そこに墓所を作りました。そうそう、寺部は、家康の初陣勝利の場所です。そこを拝領したのです。
    1639年、それまで横山御堂と呼ばれていた寺を守綱寺と改め、1644年、守綱さんの23回忌法要に合わせ、二代重綱、三代治綱さんが京都伏見城の軍議評定所を本堂に移築。山門、鐘楼、太鼓堂と伽藍が整備されました。
    その後、一度も建て替わっていないので、本堂等4点は379年の歴史を見てきたことになります。明治以後の荒廃で、寺には何も残っておりませんが、本堂内陣のうぐいす張り、桃山様式と思われる欄間、狩野派の手による大襖に当時が偲ばれます。この広い本堂に座ると「どうぞ南無阿弥陀仏のお謂れを聞いてくれよ」という渡邉家三代の願いを感じるのです。(文・坊守 渡邉陽子さん)

参考文献:
「家康の遺宝展~松平から徳川へ~」豊田市郷土資料館/豊田市教育委員会/2016年
「渡邊半蔵家‐徳川を支えた忠義の槍‐」豊田市郷土資料館/豊田市/2021年

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