武将コラム
Vol.5

三河国上野(上郷町)出身で
徳川四天王のひとり
榊原 康政
Yasumasa Sakakibara
三河国上野(上郷町)で松平家・酒井家に仕える榊原家に生まれ、家康にその才能を見出された榊原康政。文武ともに秀でた康政は、数々の戦で先鋒を務め、家康から「康」を賜るほど信頼された武将でした。なぜそれほど愛されたのか、数々のエピソードを見ていきましょう。
榊原 康政(さかきばら やすまさ)
賢さを気に入られ、家康の近習に
榊原康政は、1548(天文17)年、上野(現在の豊田市上郷町)で生まれました。
榊原家は、松平家の重臣である酒井忠尚のそのまた家臣という、さほど高くない家柄。かつ、次男坊であった康政が、家康の重臣、また二代将軍秀忠の家老となって大活躍し、後世に「徳川四天王」のひとりとして名を残すことになるとは、誰も想像できないことでした。
江戸時代後期に康政の子孫が幕府に提出した系図が収められた『寛政重修諸家譜』によると、康政と家康は、1560(永禄3)年、康政13歳のときに大樹寺で出会い、家康に近習(きんじゅ、主君のそばでお仕えする家臣)として召し抱えられました。桶狭間の戦い後、家康が岡崎入城に先立って大樹寺に立ち寄ったときのことかもしれません。康政は幼い頃から勉強好きで、その利発さは、大樹寺の僧侶たちも一目置いていたとも伝えられています。
「徳川四天王」のうち酒井忠次を除く三人は近習出身で、本多忠勝とは同い年、井伊直政は13歳年下です。

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- 榊原康政生誕の地
- 家康に仕え「徳川四天王」「徳川十六将」として名高い榊原康政は、天文17年(1548年)三河国上野(現在の上郷町)に生まれたといわれています。会下城(上野下村城)があった場所に生誕地の石碑があります。
初陣・三河一向一揆で見せた度胸の良さ
康政の初陣は、家康の家臣団が分裂してしまった三河一向一揆のとき。
生まれ故郷である上野の城主酒井忠尚は一揆方の首領のひとり。康政は、先の系図によると、一揆が起こった永禄六年、16歳にして「上野の合戦」に初陣して敵と槍を合わせたとあります。酒井忠尚の家臣であったと考えられる実の兄を敵に回すという、初陣にしてはかなりつらい戦いでした。
にもかかわらず康政は、自ら先鋒を志願。神仏の祟りを畏れる仲間には「仏罰は私がすべて引き受けてやる」と安心させ、ひるむことなく敵陣へ突っ込んでいったと伝えられます。家康自身も銃弾を受けたともいうほどの危機の中、先陣を切って戦う康政の姿は、どんなにか心強かったことでしょう。家康は一揆後に、自らの『康』の字を与えました。
ちなみに三河一向一揆のとき、家康は上野城を攻めるにあたって、隣松寺に陣を取り、同寺の稲荷社に戦勝祈願をしたと伝えられます。
隣松寺は、康政の祖父・清長、父・長政の墓をはじめ、榊原家とゆかりの深い家康の四男・松平忠吉の墓もある場所。
*ところで、康政がなくなってから30年ほどのちに、諸家から提出された系図に基づいて幕府が編さんした『寛永諸家系図伝』では異なることが記されています。「永禄六年、三州上野にてはじめて鑓をあはす。時に年十六。其後、東照大権現につかえたてまつり、…」。家康に仕えたのは、一揆の時に上野で初陣を果たした後のこと、とあります。一揆の時、上野城開城直前に、籠城衆内では家康との和睦を求める者が多くなり、城主の酒井忠尚はみずから城を脱出して駿河の今川氏真のもとに逃げ去りました。こちらの系図によると、開城した上野城に残った侍たちのひとりとして家康と出会ったことになります。
家康が、一揆の側に身を置いた者であっても、有能と見た者は家臣として重用した例は、本多正信、渡邉守綱などの例もあります。あるいは康政もそうした人物のひとりだったのかもしれません。
1564(永禄7)年、今川の将小原鎭実が籠城していた東三河の吉田城を攻め落とすにあたって、旗本衆先手のひとりとなって勝利に導きました。家康はこれを吉例として、その後の多くの戦いで康政を先鋒に起用しました。1568(永禄11)年に遠江の堀川城攻めでは傷を負い、自宅に見舞いに来た家康に、自身のことより他の武将の戦功を言上したとして、「人品の高さは康政が第一」と言わしめます。
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- 上野城跡(上野上村城)
- 応仁の頃(1467)伊勢貞親の被官であった戸田宗光による築城と伝えられています。徳川家康に攻め落とされてしまいました。榊原康政は、ここより南へ約300mの位置にあった会下城(上野下村城)が生誕の地ともされています。
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- 隣松寺
- 家康が三河一向一揆の際、陣を取った隣松寺は、榊原康政の祖父・清長、父・長政の墓をはじめ、榊原家とゆかりの深い家康の四男・松平忠吉の墓もあります。
大胆不敵な檄文で秀吉を挑発して、賞金首に
康政は、文章の言葉遣いが巧みであったため、家康の書状の作成にも携わりました。また、家康宛文書や家康への申し出の取次をする奏者という役割を行うなど、政治的にも重要な立場になっていきます。
そんな中、康政の名を知らしめた有名なエピソードがあります。小牧長久手の戦いの際に、味方を鼓舞するために、羽柴秀吉を非難して書いた「檄文(げきぶん)」です。
「秀吉は卑しい身分であったが、信長のお陰で高録を得ることができた。それなのに、織田家の恩を忘れ、信雄と戦おうとするとは、不義悪逆の極みである。したがって、秀吉に従うものは、みな義を知らぬ者である」
正しき道理を重んじ、不公平を嫌う康政は、織田家に対する秀吉の不義を、これでもかと攻撃します。さらに徳川の正当性を説き、熱のこもった文章で武将たちに助力を呼びかけました。
これに、秀吉は大激怒。「康政の首を取った者にはその恩賞、望みのままに与えよう」と言ったとも、一説に「10万石を与える」と言ったともいいます。

この後、小牧・長久手の戦いは和睦します。和睦完了に際して、康政は家康の使いとして京に派遣されます。聚楽第で公式に謁見する前夜、秀吉が非公式に康政の宿所にやってきました。秀吉は「お役目ご苦労。あれ以来おまえの首を望んでおったが、今はその気はなくなった。あるじに対するおまえの忠義ぶり、たいしたものじゃ」と語りました。
それは、和睦完了を告げる使者として、かつて秀吉を挑発した本人をあえて寄こした家康、のがれることなくその任を引き受けて全うせんとするけなげな康政、「まさしく和睦完了にふさわしく、この秀吉を今はいささかも疑ったり、恐れてはおりませぬという証をかくも演出するとは、一本取られたわい。あっぱれな主従よ」との、賞賛の辞にほかなりません。
主君への忠誠に、自らの知恵をひたすらに捧げ尽くした康政
このように康政は、情報操作の達人でもありました。
1572(元亀3)年の「三方ヶ原の戦い」で戦い敗れて退散の時も、家康と離れて浜松城に戻らず、残って味方の兵を集め夜になるのを待って、武田軍の敵陣に大声をあげて夜襲をかけ、動揺させたり…
1599(慶長4)年には、石田三成が伏見城を攻めようとしているとの情報を得た康政は、急きょ関所を設けて人の流れをせき止め、家康の大軍が近くまで迫っているかのような演出を凝らしたり…
刻一刻と状況が変わる戦場において、情報を集めて判断することに長け、機転を利かして敵の裏をかく康政は、家康の戦いになくてはならない人物でした。
小田原の北条氏攻めのあと、家康が関東に移ると、康政は館林城(群馬県)を賜り、10万石の領地を与えられました。その後の家康の東北遠征にも従軍しています。

常に家康のそばに仕えてきた康政でしたが、朝鮮出兵の後詰めとして家康が肥前名護屋に出陣するに際しては、江戸にとどまるよう指示されました。納得がいかぬ康政が不服を申し立てると、家康は「これには深い考えがあってのことだ」として、胸中をつぶさに康政に語ります。
家康が康政に求めたのは、次世代を育てる役割。康政は、のちに二代将軍となる徳川秀忠のそばにあって補佐せよと命じられました。
これ以後、康政は、かつて家康に対してそうであったように、秀忠も全力で仕えました。関ヶ原の本戦に合流できず、秀忠に激怒する家康に対して「全ては自分の責任であり、秀忠に一切の落ち度はない」と訴えたので、家康は怒りを解いたという康政らしいエピソードが残っています。
関ヶ原の戦いに対しての論功行賞は康政にはありませんでした。これについては、一説に、戦いに間に合わなかったことを恥じて康政が辞退したとも、一説に、水戸への移封加増の打診があったけれど康政が「江戸から遠くなるから」と辞退したとも伝えられています。ずっと謙虚であり続け、主君を絶対に裏切らない康政に、家康は最大の感謝として、「徳川の世が続く限り、榊原家を断絶させることはない」という御神文を送ったそうです。
秀忠が将軍となった後のこと。大御所として駿府にいる家康のもとに江戸から来た者がありました。その者に対し、家康が「秀忠はどのようにしておるか?」と尋ねると、その者は、名の知られた兵法学者の名を挙げつつ、「兵学をご熱心に議論されていらっしゃいます」と答えました。すると家康は「戦のやり方を学ぶのなら、康政こそ多くの兵を上手に使うのに長けておる。つまらぬ者の勇ましい話を聞いても何の益にもならん」と言って、康政に学べと指示を与えました。
家康に康政あり、そして康政にも家康あり。生き馬の目を抜く戦国時代を過ごし、お互いを生涯信頼し合ったふたりの関係は、秀吉ならずとも、うらやましさを感じずにはいられませんね。
1606(慶長11)年4月、康政は館林城で病に伏せりました。江戸からは秀忠の見舞いの使者が何度も訪れ、秀忠より名医が付けられました。駿府からも家康の見舞いの使者も訪れています。5月14日、治療のかいなく、みまかります。享年59歳。館林の善導寺に葬られました。
康政の魅力を語り継ぐ
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【郷土史家 佐藤壽洲(としくに)さん】
徳川四天王のひとりであった榊原康政公は、上野下村城で生まれました。当時は、畑や野原の広がる何もないところです。母は、鷺鴨城二代城主であった榊原親康の娘。康政公は、幼いころから勉強が好きだったので、大樹寺で学んでおり、そこで知り合った家康公に見いだされ、小姓として仕えることになりました。
康政公が上郷出身だということで、地元の上郷中学校では、「上中魂」という歌の中で、文武に秀でた名君と伝わる康政公に学べと教えています。康政公のように、学びに親しみ、信念の通りにまっすぐに、情熱を持って生きていってほしいですね。
また、豊田市では、榊原家ゆかりの3市とともに榊原サミットを開催し、交流・連携を深めています。
参考文献:
「家康の遺宝展~松平から徳川へ~」豊田市郷土資料館/豊田市教育委員会/2016年