徳川 家康|武将コラム|豊田の歴史巡り

武将コラム

Vol.3

徳川 家康

天下人へ上り詰めた
家康の若き時代の物語

徳川 家康

Ieyasu Tokugawa

戦国時代の荒波を乗り切り、江戸幕府を開いた徳川家康。神となった天下人の記念すべき初陣といわれる地が、ここ豊田にあります。初陣を飾った寺部城攻め、運命を変えた桶狭間の戦い、家臣団が分裂した三河一向一揆など、豊田にのこる家康のエピソードをご紹介しましょう。

徳川 家康(とくがわ いえやす)

幼少期の家康と松平とのつながり

天下人・徳川家康は、1542(天文11)年、寅の年12月26日寅の刻(午前4時頃)に、岡崎城で誕生しました。父は三河国岡崎城主松平広忠、母は三河国刈谷城主水野忠政の娘・於大です。
徳川家発祥の地である松平郷では、男子生誕の報を受け、松平太郎左衛門家7代の松平親長が、現在も湧き水を湛える「産八幡社」(うぶはちまんしゃ)の井戸水を詰めた竹筒を、自ら早馬で岡崎城へ届けたとされています。
産湯は、氏神さまがお守りくださるその土地の水を使い、出産のけがれを清める禊として人間社会の仲間入りをさせるという重要な意味がありました。産湯に使われた井戸水は、松平家初代・松平親氏の子の信広・信光の時代から、男子出産時の産湯に使われたのではないかともいわれ、健やかに育つようにと、この霊験あらたかな聖水を届けたのでしょう。*

*産八幡社のご神体は「井戸から上がり給う岩」であるとされ、社殿の背後に一部露出して鎮座しているのを拝することができます。江戸時代初期に松平の地で作成された書物には、この井戸神に関して、諸国流浪の旅人であった松平家初代を婿に迎えた松平の主の父は、「井戸八幡神の生まれ変わりと申し伝える」と記されています。ここでは、地元で大切にされている話を紹介しました。

  • 松平東照宮 産湯の井戸
    松平家は代々、松平東照宮の境内にある井戸の水を、産湯(赤ん坊が初めて浸かるお湯)としていました。岡崎城で家康が生まれた時も、この水が早馬で運ばれたと言われています。

家康(幼名・竹千代)が誕生した時代の松平家は内紛が続き、幾人もの有力家臣が岡崎城の広忠のもとを去り、尾張で台頭していた織田信秀と通じました。3歳の時に、水野忠政のあとを継いだ母・於大の兄である信元が織田との協調に転じると、広忠は於大を離縁。5歳の時、織田信秀が自ら出馬し、織田方によって岡崎城が包囲されます。すると、今川は岡崎に兵を進め、織田軍と戦いましたが、その渦中、竹千代は織田の手に渡ってしまいました。翌年には、織田・今川両大軍による小豆坂(岡崎市)での正面戦がありました。竹千代7歳の時に、広忠が亡くなりました。その直後から今川は、織田の三河における最大の拠点となっていた安城城を攻め、長期の攻防戦を経てついに攻め落とし、織田信秀の子・城将信広を捕えました。その結果、竹千代との人質交換がなされ、竹千代はあらためて今川が預かることになりました。
8歳となった竹千代に、岡崎城に訪れる機会があり、そのとき松平氏の菩提寺である高月院で先祖の墓に参り、「花月一窓」と書いた掛け軸を残したと、高月院では伝えています。そして、19歳のときには、高月院で墓参りをした後、松を中門の下に植えたといわれています。その松は枯れてしまいましたが、現在、境内には将軍家ゆかりの松が植えられています。
家康は生涯に何度も先祖の墓参りに訪れたとされています。*その時に通ったのが、「松平往還」と呼ばれる、岡崎市の大樹寺から豊田市の松平郷・高月院までの約13㎞の道。家康は何を思い、先祖のふるさとまでの道を歩いたのでしょうね。

*家康が、先祖の墓所を守ってきた松平郷の百姓たちに対して課役免除の措置を指示したことが、高月院の古文書から明らかにされています。

家康17歳、「寺部城攻め」で初陣を飾る

武将にとって初陣は、単なるデビュー戦という意味だけでなく、元服と同じように、人生の門出を飾る重要な儀式のひとつでした。そのため領主クラスの上級武家においては、初陣は死に至るような厳しい戦いではなく、勝算があって危険ではない戦で行わせたそうです。

天下人・徳川家康の初陣は17歳の時。戦いの舞台となったのは、豊田市の市街地近郊で矢作川沿いに位置する寺部城です。当時は「松平元康」と名乗っていましたが、以下の叙述では便宜的に家康と表記します。
寺部を治めていたのが、松平氏と同様、三河で勢力を拡大してきた地元の有力者である鈴木氏。三河に進出した今川義元にはじめは服属していましたが、この頃三河各地で相次いだ今川氏への叛乱の一翼を担いました。義元は家康に城主である鈴木重治討伐戦への出陣を命じたのです。

家康は、戦の準備のため、岡崎城に戻ることを許されました。このとき、松平家の家来たちは、「ようやく殿のもとで戦える」と大喜びしたといいます。
家康が駿府で生活することを余儀なくされている間も、岡崎領の統治は家康の重臣たちが担っていましたが、軍事指揮権は今川家が統括しており、戦時には今川氏家臣である大将の下で戦う状態でした。
だからこそ、松平の家臣たちは、初陣の家康に、何としても華を持たせようと意気込んだことでしょう。

そして、迎えた初陣の時。家康軍は、岡崎から寺部城へ進軍し、外曲輪(そとぐるわ)を破ると、相手が混乱している間に火を放ち、岡崎に戻りました。――ミッションは無事クリア。この完璧な戦いぶりには、義元も大いに満足し、松平の旧領だった山中領を与えました。家来たちは、勇ましい元康(家康)の初陣に、戦いの天才であった祖父・清康の姿を重ね、涙を流して喜び合ったと伝わっています。
ちなみに、寺部城より東に約1㎞あたりには、家康がこの寺部城攻めの時に腰かけたという「烏帽子岩」があります。ここで、合戦の采配をふるったのだとか。そして、小原の賀茂原神社にも、「家康の腰掛石」があり、パワースポットとして知られています。

  • 寺部城址の森公園(寺部城址)
    寺部城は15世紀、文明年中鈴木重時によって築城された城です。のちに尾州徳川家の家老職(初代渡邉守綱)の居城(陣屋)となりました。
  • 烏帽子岩
    家康の初陣「寺部攻め」の際にこの岩に腰を掛けて采配を振るったとも言われています。
  • 賀茂原神社
    家康が小原一円の様子を視察に来たときに床几として石の上に座ったと伝 えられています。小原町の賀茂原神社に大人で一抱えほどもある石(150㎏)そのそばに『御腰掛け石」と刻まれた標柱が 建っており「力石」とも言われています。

「桶狭間の戦い」義元の死で運命が動く

家康にとって大きな転機となった「桶狭間の戦い」にも、豊田市にのこるエピソードがあります。
戦いのさなか、伯父の水野信元の使者から「今川義元、討死」の知らせを受けた家康。「このまま尾張にとどまっていてはいけない。まもなく織田軍が襲いかかってくるから、一刻も早く退却しなさい」との使者の言葉に、大きな判断を迫られることになります。この時の家康には、これは攪乱のために織田が流した偽情報に煽られた話であって、「義元様はいまだ生きておられ、戦いの最中かもしれない」との思いがあったと思われます。そうだとすれば、うかつに自身の持ち場を離れるわけにはいきません。「義元、生きていたとしても退陣中」であれば、自身も一刻も早く義元を追って駿府(静岡市)までたどり着かねばなりません。

そこでの家康の様子は「いささかも、あはて給わず」。とかく慎重な家康は、すぐには行動せず、まずは冷静な判断をするための情報を集めます。
「義元の本陣、総崩れ」で間違いなしと分かると、とりあえずの安全圏、今川領国である三河をめざし、大急ぎで退却を始めました。

家康軍は、落ち武者狩りを警戒しながら、旧鎌倉街道から、鳴海、知立、八橋、和会、上野、隣松寺を通り、そこで配津村(現在の豊田市配津町)の船頭半三郎の案内で、矢作川を渡り、5月21日に松平家の菩提寺である大樹寺に入ったと、伝えられています。*すぐに岡崎城に入らず、いったん大樹寺でとどまったことについて、『三河物語』では、城を守る今川の将から「入城して代わって岡崎城を守ってほしい」との要請があったけれども、今川氏真に義理立てをして辞退したと説明しています。しかし、ただちには入城しなかったのが事実とすれば、城をどの勢力が押さえているか把握できていなかったため、慎重を期したとも考えられます。結局、今川の将兵が遠江・駿河を目指して大急ぎ退却し岡崎城はもぬけの殻となったのを確認すると、家康は「捨て城ならば拾わん」と言って入城したといいます(『三河物語』)。事態急変後、岡崎城を遠望しながら矢作川を渡る家康の胸中は、どんなものだったのでしょうか。

*家康が桶狭間合戦後に岡崎城に入るまでの経路、経緯については、他にも様々な説があります。

  • 徳川家康渡船之所
    桶狭間の戦いの後、家康軍が配津村(現在の豊田市配津町)の船頭半三郎の案内で、矢作川を渡り、5月21日に松平家の菩提寺である大樹寺に入ったと、伝えられています。

若きリーダー家康の試練「三河一向一揆」

家康が三河を平定する過程で起こった最大の危機、三河一向一揆。
豊田市幸町の隣松寺では、一揆の拠点の一つであった近隣の上野城攻めの本陣を、家康が隣松寺に構えたと伝えています。

隣松寺には、裏面に「佐々木金剛寺」と書かれた雲版(うんぱん)が伝わっています。打ち鳴らして食事を報せるための仏具です。もともと佐々木(岡崎市)の金剛寺(一揆当時は廃寺)にあったものですが、これがここに伝わっている由来と隣松寺と家康の関わりについて、隣松寺では次のように伝えています。
この雲版は、一揆の拠点の一つとなった同じ佐々木の上宮寺に伝わっていました。家康が上宮寺を攻めた際に鎧に銃弾を2発撃ち込まれる中、この雲版を分捕って、流れ弾に当たらないよう、こんな重い雲版を背負って隣松寺まで逃げてきたといいます。
なんとも激しい戦の様子を伝えていますが、少しユーモラスな話でもありますね。

寺内の稲荷社で戦勝祈願をした家康は、戦勝記念として隣松寺に「木造徳川家康像」をおさめました。家康は三河を離れた後も、稲荷明神を自身の守り神として信仰していたそうです。

全国統一を成し遂げ、各地にゆかりの地がある家康ですが、激動の青年期を生き抜いた三河での日々は、彼にとって、のちの天下人へと向かう原点であったといえるでしょう。

  • 隣松寺
    家康が一向一揆の際に、一揆勢の有力な武将の一人であった酒井忠尚の居城・上野城攻めの本陣とした場所といわれています。家康は隣松寺内の稲荷明神に勝利を祈願したといわれ、三河を離れた後も自身の守り神として信仰があったそうです。
  • 雲版
    隣松寺のこの雲版は、一向一揆の際に家康が背負って逃れてきたという岡崎市の佐々木・上宮寺の雲版と言われています。
  • 木造徳川家康像
    家康が隣松寺の稲荷明神に勝利を祈願し、その戦勝記念として隣松寺に安置した像で、家康24才の珍しい甲冑姿の彫像です。寄木造、黒漆塗の像で、鎧の小札と軍配には金線が施されています。彩眼で、顔の表情は厳しく、肘の構え、足の開きなど武将らしく表現されています。

現在の豊田市にも、実は家康が遺したとされるものがあるんです。
それは「やな漁」。
やな漁は、川の中に木を打ち並べて、簗(やな)とよばれる、簾をめぐらした堰に魚を誘導して捕えるという、万葉集の時代から伝わる漁法で、矢作川・巴川では鮎のやな漁が今もさかんに行われ、いくつもの観光やながたち、夏の風物詩となっています。ただ、観光用でない、本来のやな漁は、鮎を一網打尽にしてしまうため、簗の設置をめぐっては、流域周辺との漁業権の調整が求められるのが常でした。
豊田市内の巴川沿いの、九久平(くぎゅうだいら)、酒呑(しゃちのみ、今は幸海町)、則定(のりさだ)には、江戸時代、三つの旗本鈴木家がありました。この三家の記録によると、関ケ原の戦いの後の1602(慶長7)年に、家康が妙昌寺を訪れた時、お供をした鈴木三家の当主に対し、「山中の生活は鮮食に乏しいから、足助川に簗を作って魚を捕るがよい」と指示を与えた、といいます。足助川とは、今の巴川のことです。鈴木三家では、山村に暮らす旗本家に対して、家康から直々に許可されたやな漁であることを誇りにし、毎年季節になると、やな漁で捕えた取れたての鮎を塩処理して江戸に送り、代々の将軍に献上しました。
そして「弓道」。
家康のゆかりの地である三河・駿河・遠江国には、武芸の鍛錬として、武士でない農工商の者にも弓が許可されたといいます。そのため、足助神社をはじめ、市内には多くの「金的中」の奉納額を見ることができます。

  • 妙昌寺
    1300年代後半から松平郷を治めていた松平家と深いつながりのある曹洞宗のお寺です。お寺は王滝渓谷にあり、苔むした石垣で固められた段々畑の上に建っています。
  • 豊田のやな
    豊田市内には各地に「やな場」があり、豊田の夏の風物詩として親しまれています。やなでは、鮎のつかみ取りや塩焼き、お刺身など様々な料理で鮎を楽しむことができます。
  • 足助神社
    鎌倉時代末期(1331年)に、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗をあげた「元弘の変」で、笠置山に立て籠ったときの篭城軍総大将・足助次郎重範を祀っています。弓の名手と伝えられています。

参考文献:
「家康の遺宝展~松平から徳川へ~」豊田市郷土資料館/豊田市教育委員会/2016年

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