ものづくりの歴史 | 【公式】愛知県豊田市の観光サイト「ツーリズムとよた」
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ものづくりの歴史

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いつの時代も未来を拓いてきた、豊田市のものづくりDNA

「ミライのフツーを目指そう」。このスローガンのもと、次代を見据えた数多くの新規事業に全国に先駆けて挑む豊田市。100年先を考えた森づくり、再生可能エネルギーの地産地消、環境性能に優れたスマートハウスの実証実験……交通、森林、産業、生活のあらゆる面で新たなチャレンジを続け、2009年に環境モデル都市に指定されました。市民、企業、教育・研究機関、行政などが共働し、環境活動を展開。これまでに世界100以上の国々から視察団が訪れています。

自動車産業がベンチャービジネスだった1930年代には、この地で国産自動車の大量生産がスタート。そして現在、自動車産業の大転換が進んでいます。低炭素社会を「ミライのフツー」にすべく、2015年、量産燃料電池自動車「MIRAI」が誕生しました。いつの時代もチャレンジングな豊田市。その先進的なまちづくり、ものづくりのDNAが、日本、世界をリードし続けています。

日本、世界を動かす、豊田市の原点とは?

豊田市の前身である挙母町は、養蚕・製糸業で栄えていました。しかし、1930年頃、世界恐慌の波が押し寄せ、町は一気に衰退。人々が途方に暮れる中、立ち上がったのが、町長・中村寿一でした。当時の新たな産業である自動車製造に希望を託し、工場誘致に尽力。1935年、登記面積約58万坪の買収を成し遂げ、整地作業を始めました。

中村と同じく熱い志を燃やしていたのが、この自動車工場の建設に力を注いだ豊田喜一郎。日本の発展につながると信じて自動車の研究に打ち込んでいました。そして、「国産自動車の大量生産」という夢をかなえるため、この地にトヨタ自動車工業を創業しました。

そのとき、中村と豊田の目には、自動車が普及する「ミライのフツー」が映っていたのでしょう。だからこそ、無謀と思われた新たなまちづくり、ものづくりを断行し、次代を拓きました。そして、時代は移り1950年代になると、自動車関連工場が急激に増加。産業の躍動とともに、豊田市はクルマのまち、ものづくりのまちとして今もなお進化し続けています。

ものづくり人材の育成にも力を注ぎ、次代に挑み続ける

多様な製造業が集積する豊田市は、活発な産業活動を展開する“ものづくり中枢都市”。平成26年の製造品出荷額等は、13兆847億円※。市内の860※ある工場で働く105,996人※が生み出した成果であり、全国第1位となっています。中でも、市内に357※ある自動車関連工場の製造品出荷額等は全体の96.5%※を占めます。

挑戦し続ける豊田市のDNAを未来へ受け継ぐために、自動車産業をはじめとしたものづくりを担う「人づくり」も重視。その一例が、若手技術者が製品開発を通して発想力や技術力を磨く「ものづくりミライ塾」、産学官連携でリーダー技術者を養成する「『ものづくり一気通観エンジニアの養成』プログラム」、子どもたちが自動車関連企業の技術者とクルマづくりに取り組む「クルマづくり究めるプロジェクト」。誰も想像しえない「ミライのフツー」を創っていく、ものづくりの力と心を大きく育んでいます。

※いずれも従業員数4人以上の事業所

日本の産業をリードするものづくりの拠点

日本のものづくり産業が大きな転換期を迎えている今、産業構造の変化に対応するとともに、地域資源を生かした産業の活性化や働き方改革を進めています。国内有数の企業が集まる豊田市は、国内だけでなく海外との交流も盛んで、工業団地や研究所などの環境も整っており、交通アクセスにも恵まれていることから、新しい事業を始めるには最適の地域です。企業の進出を促す制度を用意すると共に、新たに「ものづくり創造拠点SENTAN」を設置し、企業の新事業展開の促進や次世代のものづくりを担う技術者の育成を行うことにより、企業の新しいものづくりへの挑戦を一層サポートしていきます。また、女性や若者、在住外国人の働く機会を創出するとともに、経営者への意識啓発やアドバイザーの派遣を行うなど、多様性を認め合える働きやすい職場づくりを支援しています。

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豊田市には世界最高峰の品質を生み出す、ものづくりの“わざ”と熱い“こころ”があります。
そんな「とよたのものづくり」を映像で紹介します。

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